直近で印象に残ったニュースについての自分の感想まとめ(7月編)。
・「一人で抱え込まず」電話相談とは言えど
・ツーブロック禁止。問題はそれだけか
・「新しい生活様式と無関心化」
目次
「一人で抱え込まず」電話相談とは言えど
先日、また自ら若い命が絶たれた。
ニュースでは決まり文句として
「一人で抱え込まず、まず電話相談などを」というフレーズが聞こえてくる。
しかし、これに疑問を覚えた。
検索してみるとわかるが、いのちの電話がつながらないという話はちらほらある。
そして、その電話を受けているスタッフやボランティアの人が逆に病んでしまって辞めてしまうというケースもあるという。
まず電話相談をと言ってしまうのは簡単だが、果たしてどうなのだろうか。
「そうだ、京都へ行こう」のようなノリですぐ電話してしまって良いのだろうか。
他に方法はないのだろうか。と思ったのである。
しかしこれは難しい話なのも承知である。
相談できる人間がいない。
逆に相談したら傷ついた。(セカンドレイプという言葉も存在する。)
むしろ周りに心配をかけたくない。
そういうケースもあるのだろう。
カウンセリングというのもあるが、お金がかかる。
過去の記事で少し触れた内容だが、
学生時代(中学と大学)にスクールカウンセラーの戸を叩いてみたことがあるが
相性なのか否か、自分の求めるものは得られなかった経験もある。
本当に病んでしまった人が心療内科等に行って医者に甘えだと説教されて余計病んでしまったという話も聞いたことがある。
ネットの話を全て鵜呑みにするわけではないが、ひとくちに相談といっても難しいケースも少なくないと感じた。
だからこうやって命を絶つ人が居なくならないわけである。
生真面目な人間は自分で抱え込むことが多く壊れやすいとよく言われる。
真相は不明だが、今回の俳優のニュースの件もその可能性がなくもないとされている。
人間誰しも言えない悩みってあるのではないだろうか?
もうどうしようもないことだけれど悩んでしまうことだったり…
多かれ少なかれ、あるんじゃないだろうか。
ただ、それにどこまで耐えられるか、ストレスと上手に付き合えるか。
その個人差は大きい。
万人に言えることではないが、これに対して一つ自分が解っていることは。
理解者でなくてもよい。相談相手でなくてもよい。
他愛のない会話するだけで十分。
ただそこに生きていることだけでいい。
そういう人は一人でも周りに居ればだいぶ違うということがある。
そういう存在が居ないか今一度、見渡してみるのも良い。
誰でも良いのである。
それだけで頑張れたことだってある。
存在自体が心の支え、と形容してもよい。 ※しかし、依存しすぎても危険なのである。
逆に辛い状況だろうに、頑張っている人が周りに居れば
「あの人が頑張ってるなら私も頑張ろう」と勇気を貰えたこともあった。
人でなくても趣味なりキャラクターなり、心の支えとなるのならそれもアリ。
実際、仕事に集中していると余計なことを考えなくて済むので狂ったように打ち込んでしまったりもする。嫌いじゃないって思える仕事ということもあるかもしれないが。
本人にとっては死ぬほど辛いことだったのだろうし、それを責めるわけでない。
しかし、その彼の存在がまた、ファン等多くの人にとっての支えでもあったのではないだろうかと思いを馳せたのである。
実際リアルでこのニュースを聞いてひどく落ち込んだ人間も居た。
相談することだけに焦点を当てすぎないことも大事ではないだろうか、と私は思ったのである。
ツーブロック禁止。問題はそれだけか
ツーブロック禁止の校則は有名な話だ。
その髪型が規制される納得のいく理由を学校側が述べられていないこともあり、尚更炎上したのだろう。
ツーブロックがイケてるかどうかは別として、
その髪型をしたら不良だとか、学業に支障が出るとかいうと、流石に私も偏見とは思う。
その髪型にした学生たちがどれくらい成績が下がったかという検証データがなければ机上の空論に過ぎない。
ツーブロックというと進撃の巨人が大流行した頃、登場人物の「兵長」がその髪型ということで流行もあった。
そもそもツーブロック禁止だけが問題だろうか。
変な校則で検索をかければ沢山出てくる。
今回のように賛否両論ある校則と言ったら、恋愛禁止の学校も有名な話だ。
参考URL https://www.crank-in.net/news/73501/1
私の学校ではなかったが、
中学か高校の校則には確か男女交際はお互いの節度を守ること、とうろ覚えではあるが少なくとも禁止するような旨は書かれていなかったと思う。
更に変な校則の例はほかにもある。
一例だが、マフラー禁止とは何事か。
さて、校則は何のためにあるのか。
私は、学校生活(とくに義務教育)を快適に過ごすため、また学外の人間から見て良くない印象を与えぬよう…等々の理由があると私は考える。
社会に出れば厳しい就業規則を守らねばならない為その練習場という意見もあるが、
かといって意味の不明な校則はどうなのかというところである。
この項目の最後に一番わけのわからない規則として「裏校則」についてちょっと触れている。
あまりにも誰得なのかという校則は守る気が起きないという人間が出ても不思議には思わない。
朝食に納豆を禁止している職場があるという話は知っていたが、
製造業では納豆菌が微量でも持ちこまれると製造工程に影響が出る場合があるため
という正当な理由がある。
そういうふうに理由がきちんとあればいいが、
あれはダメ、これはダメと言って、その理由が漠然としているような校則は反発を生むし私も理解しかねる。
そもそもツーブロックと名指しで禁止されてるならアフロは良いのか、とか言うときりがなくなる。
つまり常識的な校則を作れ、ということになるのだが、どこまでが常識的といえるのかの判断は改めて考えると難しい。
人によって価値観が違うので、万人が納得する校則というものは存在しないと思う。
例を挙げると、高校のピアス禁止の校則について賛否がある。
https://www.j-cast.com/2016/01/05254807.html?p=all
「学生らしい格好をしなさい」と教わってきた私には特に疑問でもないが、
賛成側は見た目で人を判断することへの疑問を投げかけており、色々考えさせられる。
しかし実際はきりがなくなるから、ある程度の線引きというものは必要なのである。
ただ、私が思うのは…
規律を守れる人間にさせるために校則を、と考えている人間に問いたい。
そこにいじめ問題は考慮されていますかと。
服装きちんとしました、それでおしまいなのだろうか。
どうも見た目だけ重要視されて人間性などの中身はさほど重要視されていない気がしてならない。
いじめはいけませんという校則はあったかもしれない。
でもこれが実際守られていないケースがある。なぜか。
私の出身校で特にいじめがひどかった学校があった。
学年中から袋叩きされている人間までいた。
別記事でも触れたが、いじめについてを教職員に相談したらまず軽くあしらわれたのである。
いじめをしないのも人として立派な規律…というか常識である。
服装以上に重要ではないかと思う。
しかし、昨今でもいじめ問題がなくならない。
服装ばかりに気を取られていないで、目を向けるべき問題が他にも多々あると思うのである。
規則はきちんと周知
余談だが校則には明記されてないのに中学では女子のインナー(上)は白と先生が取り決めたこともあった。(学年が変わっても校則には一向に付け加わらなかった)
これについては妥当とは思う。Yシャツは白だったので透ける。
人によっては目のやり場に困るだろうし、何組の誰が黒の下着だったと騒いでいる男子を見たことがある。
自粛警官ではないが、風紀委員気取りの人間も出てきて
「同じことをやっても注意される人間とそうでない人間」が出たりして学内に摩擦を生む光景なんかも見てきた。
規則を取り決めるなら明記するなり、きちんと周知させることは大事だと思ったエピソードである。義務教なんだから尚更きちんとするべきである。
裏校則の存在
これとか一番意味のないわけわからない概念
中一女子は
・スカートにつりひもをつけなければならない、
・靴は白色でなければならない、
・第一ボタンを留めなければならない
・鞄の背負い方はリュックサック型のみ
等々という伝統的なものがある。
男子の裏校則はよくわからないが、ボタンや鞄については女子に比べ自由だった為羨ましく思えたこともある。
もしそれを破れば先輩にいじめられるという大変意味不明なものであった。
実際それを守らなかった人が先輩にボロクソに言われて泣かされた事件もある。
そうならないためにと皆それを守っていた。
皆従ったわけのわからない決まりそのものだが、本当に誰得の決まりだろうか。
では逆に中二、中三になってもそれらを守ったらどうなるのかと思い、実験した。
すると皆と同じ格好でないのが不思議になる人間が多いもので
なんで開けないの?白以外の靴履かないの?
と聞かれたのである。
知りもしない後輩にナメられてたようなこともあったとおもうが間違ったことはしてない。
高校では式典以外は紺色以外に白のソックスでもいいという話だったので
夏期講習時に履いてみたりもした。
皆式典以外でも紺を履いていたので、やっぱり突っ込まれた。
なんで白なの?と。
「校則で式典以外は白でも良いとあるし実際先生に怒られなかったぞ」と何人に説明しただろうか。
「新しい生活様式と無関心化」
新しい生活様式、コロナへの懸念。
人同士の繋がりの希薄化は、よく聞くフレーズである。
ソーシャルディスタンスの概念により人との物理的な距離が開いているだけではなく、
リモートで仕事もできてしまう時代だ。
昨今では視覚障がい者がホームで転落する事故が多発しているとニュースで聞く。
これを防ぐため、積極的な声掛けが推奨されている。
世の中が殺伐していると感じる上に、呼びかけなければ誰も実行しない世の中になってしまったかと呆気にとられてしまったのである。
人の命がかかってることだし…
言われなければできない部下が多すぎて頭を抱える人の声もあちこちで聞いたりもしたが、なんとなく職場に限った話ではない気がする。
規律は何処へ
あおり運転もそうだ。ネットの誹謗中傷もそうだ。
これらを厳しく取り締まる法律を作らなければならない時代になるほどマナーやルールを守らない人が多くなったと解釈できる。
暗黙の了解とか常識とか、そういうものが崩壊している気がする。
いちいち○Cジャパンの宣伝や電車の広告で呼びかけるのか?
それではきりがないだろうし、小学生じゃあるまいしとも思えるが、
実際「見た目は大人頭脳は子供」がそれだけ多くなっていることの証明といっても過言ではない。
つくづく思うのが、子供が駆け回ってぶつかりそうになるのに
その親は知らんふりだったり子供を意地でも捕まえようとしない…
という光景なんて飽きるほど見てきた。
私がその歳の頃だったら速攻で親が捕まえに行き、相手に詫びを入れその後こっぴどく怒鳴られたりお仕置きを受けるところである。
車輪の付いた靴が流行した時代、それで店内を滑っていた女の子に対して
知らないおじさんがコラ!!と怒鳴って女の子は何も言わず去って行ったのを見たことがあった。
心の中でナイスを押してしまった瞬間である。
おじさんGJ!いいぞ、もっとやれ。
私のようなモブが注意したとしてもナメられるかモンスターペアレンツの登場になりそうだし、怖そうな人が喝入れると本当に効果あるんだよな。
無関心
そういえば何年もの前に、東京の駅の階段で女性が転んでも周囲は無視だったという寂しいニュースもあった。
特に東京に冷たい人が多いという印象を持っている人も一定数存在することは検索して出てくる通りでもある。
痴漢等が目の前で起こっても周りは見て見ぬふりという例も聞いたことがあるし、似たような例は沢山あるようだ。
事の大小はあれど面倒事に巻き込まれたくないのもわかるし、一般人が止める義務は確かにない。止めに入ろうとして巻き込まれないこともない。
私だって暴漢を抑えるとしたら少なくとも一人では無理だと思う。
しかし、ひどいと目の前で事件が起こっているのに誰も出てくるどころか通報もしなかったという例もあるようだから、ちょっとそれは虚しいにもほどがある。
目の前で落し物をした人が居るのに見て見ぬふりの人ばかりだったので
少し離れた所に居た自分が拾って渡したときには、
お礼の言葉を聞きながらもどこか寂しい気持ちがあった。
よくメディアで「不審者に狙われたらキャーとか助けてではなく火事だ!と叫べ」
と聞くが、そういうのが背景にあったりするのかもしれない。
うそつきになるのでは、いや緊急避難だという論争もあったりするが…
コロナが騒がれる前からそういう「無関心」的な風潮は珍しくないのである。
開封商品を見つけて店員に知らせた方が疑われたというニュースもいつしかあった。
道を尋ねようとしたら不審者扱いされたという事件も有名だ。
捻くれというよりも、それほど世の中は「人を見たら泥棒と思え」になってるのか。
それだから警戒して善意で動く人間がますます減ったのかもしれない。
とにかく殺伐としすぎと感じるのはそこである。
私個人の出来事の場合であれば基本自己責任、と半ば諦念に近いものを持っている。
漫画の世界ではないのだから助けを求めたところで、都合よく誰かが手を差し伸べてくれるだろうとは思えない。
私から見た世の中のイメージは、その一文に現れていると思う。
ちょうど最近聴いた、はるまきごはん氏の曲の歌詞がちょっと意味深である。
他人はそう簡単に変えられないし、腹の内はわからない。
まとめ
気持ちはわかるけど、疑心暗鬼になりすぎても誰も特をしないと感じたのである。
あまりにもモラルが崩壊してしまえば本当に「自分の身は自分で守れ」的な某国民の姿勢を取らないとやっていられなくなる日も来てしまうのではないだろうか。