雨と箱庭

明日は明日の風が吹く。

もうすぐ敬老の日

正直私は、祖父母に可愛がられて育った記憶がない。

 

祖父母は男子が欲しかったのか、従兄弟のほうをとにかく目にかけた。

従兄弟はよくゲームやスケボーなどを買ってもらえたり色々な場所に遊びに連れてもらえたようだが、私はそうではなかった。

私は年上だから我慢しなさい、一人っ子だからといって我儘はさせませんと躾けられた。私の番は永久に回ってこない。そう自分に言い聞かせながら過ごして育った。

 

もう一方は祖母しかいなかったが、その祖母は私をいつまでも小さい子供としてしか見なかった。

10代ともなれば子ども扱いされていることに強く抵抗を感じ、入浴など一人でできることまで干渉しようとしてくると強いストレスを感じずにはいられなかった。俗にいう性的被害というようなことまでも起こった。

親族がどんどん他界していくショックからか祖母の心身は衰え、私への依存はより強くなり、気づいたら今でいう『ヤングケアラー』として学生時代のほとんどを過ごした。

 

学校はあまり居たいと思える環境ではなく、忙しい部活に入る選択肢はなかった。

誰かと遊ぶこともできず、誰かとそこまでの仲になる術自体もとうに忘れてしまった。

周囲にこの話をわかる者はおらず、むしろ青春を謳歌している周囲を正直うらやましくも思っていた。

 

「可愛がってくれるだけマシだと思いなさい」

「私があなたの歳の頃にはもう祖父母なんていなかったのですからね」

「これは宿命だ。おばあちゃんをお前が支えてやるんだぞ」

「みんな忙しいんだから協力してやってくれ」

理想の孫を続けるのは私には負荷が大きすぎると身内にこぼしても、皆忙しいということもあり、厳しい言葉が返ってきただけであった。

そして祖母。「欲しかった女の子で一人しかいない孫なんだわ、しょうめえ!」

しかし祖母が愛情を向けるのは小さくて可愛い理想の孫の姿なのだ。

 

従兄弟がひいきされたことと、女の孫を欲しがった方からの強い依存も経験したので、男子だったら良かったのだろうかと考えたこともあった。

自分の性別を否定したくなる気持ちが一度芽生えると面倒で、女子が男っぽい振る舞いをすれば下品だし痛いと顰蹙をかうし、女の子らしくしなさいと言われるとこれまた反発を覚えてしまう。

生まれ持った性別を変えるのは容易でないことを悟って落ち着いたが、正直どこか自信をもって女性ですとはやっぱり言えない自分がいる。

 

 

もう今は皆良い歳を迎えているので、いつ誰にその時が来てもおかしくない。

とても我慢も多かったし失ったものも沢山あった。

今考えれば子供の身にできることは少ないから、それらが私なりの敬老の形だったのかもしれない。

かといって今もできることは大してないが、せめて足は引っ張らぬよう自分の健康管理には気を付けているつもりではある。

 

いつその時が来ても後悔のないように、という気持ちがあったのかもしれない。

私は自身を持って言えるだろう。やれることはやったと。

 

 

 

 

小石の行方

投票所には足を運んでいる。

しかし、用紙を記入するその手が躊躇ってしまった。

期日前投票があるにしてもこの限られた期限は社会人にとって優しいとは言い難いし、代理人を頼れない場合だってあるだろう。

天気が悪いとその場へ向かうことさえも面倒にすら思うこともある。

 

私の世代の絶対数は少ない。

実際、投票所に行けばそこに居るのはほとんど私より上の世代の人たちだ。

いつも選ばれるのは、その世代の人たちに恩恵が多い政策である。

多数決だからしょうがない。一人ひとりの要望を叶えることは難しいから、今一番声の大きい方優先されていく。そういうシステムなのだ。

今回もきっとこの人口の多い方に有利な政策を掲げた者が選ばれるのだろう。そんなことがふと頭をよぎり、鉛筆を持った手がつい鈍ってしまった。大海原に、そっと小石を一つ投げ入れているような気持ちになってしまったのだ。

 

私の世代は政治に興味がある人ばかりもいない。私も難しくて大きな話はわからないし、何が正解かわからないことも多い。

中には個人の価値観によって意見も分かれることであり、他人と気軽にできるカテゴリの話題でないような印象さえある。ちょっとしたことでも炎上する世の中では尚更。

だからといって権利を放棄する理由にならないし、だからこそ私は行くのだが、もう少し前向きな気持ちで投票所に向かえることができたらと思っている。

 

 

 

一年を漢字で表すと。

今年一年を漢字で表すと「変」となる。

特に変人を極めたという意味ではない。

 

その一つが味覚である。

 

疲れたりするとついお菓子に手を伸ばしたくなるし、人並みにスイーツは好きだったと思う。

しかし、だんだん甘いものを見ると胸やけしそうになったり、少し食べただけで満腹になってしまうことがあった。ショートケーキを一つ食べるにも2日かけてしまう。

 

そしてここ一年は間食という概念自体がなくなっていた。

甘いものを積極的に欲することがなくなったのである。

まったく無理になったわけではないが、食べる気が起きず人に譲ってしまうこともある。

 

その代わり、アフタヌーンティーや出先の喫茶店などたまにしかできない少量贅沢、つまり量より質を重視するようになった。

もちろん頻繁に行けるわけでない。だからこそ、次のアフヌンのために貯金も仕事も頑張ろうという原動力につながる。

 

スーパーで値引きシールの張られたプチプラ洋菓子を見かけることもあるが、

「このお菓子n個分であれが食べられる。」

と考えると後ろ髪を引かれることなくそのコーナーを後にできる。

そもそも安いお菓子は食べても印象に残らないことに気づいたのである。

「あのお店のデザート美味しかった!」

と思い出になるようなものをそのお金で買ったほうが満足度も大きく、話のネタにもなると考えるようになった。

 

同性の付き合いでお茶に行くようなことがもしあった際、全く甘いものが無理な体質になってしまったらそれはそれで苦労するかもしれないからこのくらいが丁度いい。

 

その分、より辛い物を追求するようになった。

もう中毒の領域に入っており、定期的に辛い物を摂取したくなる衝動に駆られる。

粉末唐辛子もかけすぎてすぐ空っぽにしてしまう。

 

それでも私は元々辛い物がだめだった。サンドイッチにからしが入っているとだめ。

寿司にワサビがちょっとでも入っているとだめ。キムチもカレーもダメ。

高校生くらいになってやっとちょっとずつ慣れていったといった具合だ。

 

健康上は良いはず。

 

ほかの変化について書くのはまた別の機会とする。