雨と箱庭

明日は明日の風が吹く。

成人式なんざ、とかつて思ってたのを反省した話

成人から早幾年。率直に言うと私は成人式に興味がなかったので出席しなかった。

それだけ私には価値を感じられる行事とは思えなかったからだ。むしろ、マイナスイメージしかなかった。

 

ただ、その後間もなくして聞いた話により成人式への見方が180度変わったのである。

 目次

 

成人式に行かなかった理由

そもそも行きたいと思わなかった

成人式は特に出身地でも居住地でも会いたい人間は居なかったし、私に会おうとするような人間こそ到底ありえない。ぶっちゃけ集まりたければ成人式関係なく内輪で集まれば良い話でもある。

学校変われば級友であっても過去の人間、というのは珍しい話でもない。


特に出身地となると、「馬子にも衣装」とか言って鼻で笑ってきそうな人間の顔がいくつか思い浮かぶ。それくらい私は殆どの同級生たちには良いイメージがなかった。
流石に子供じゃあるまいし、とはいっても三つ子の魂百までということわざもあるし、やはりそう簡単に友達でもない人間を信じるわけにはいかない。

 

誰も自分のことなど逆に覚えてないかも、と思ったら「成人式来てないの?」というメールが入った。この時、「あっ、今日だったんだっけ」と呑気なことを考えた。

中途半端な知り合いに出くわして大学のことや恋人の有無とか聞かれてもやっぱり面倒なのでどちらにせよ行かなかったと思う。

適当にバイトとかで行けないと返信した記憶がある。忙しかったことは事実。

 

 

そして、毎年のようにどこかしらで新成人が暴れたというニュースが上がるのが恒例で、記念品という打算抜きにしても行きたいという気持ちは起きなかった。

巻き込まれても面倒だし、会場にそんな人が居たら同じ成人としても恥ずかしい。まあ、それを気にしないのが大人の余裕なのであろうが。

 

 

振袖に興味がなかった

私は特に冷めていた。呉服屋の陰謀には乗らんぞ、と。実家にまで届く振袖のDMの嵐にうんざりだったのだ。

ウェディングドレスに憧れたりするような人間ではなく、変わってるねとよく言われてきたし変人言ったら取って食うぞ、女子トークにたまについていけない感じを覚えることもあった。恋バナとか無理。

 

派手でキャバ嬢みたいなのがトレンドなのか、それらを眺めても私は全く心躍る気持ちにはならなかった。歩きづらそうだし、寒い中謎の白いファーを揃って着けるって仮装パーティー?と。

私にはそういう格好とかきっと似合わないだろうし、和装も好みじゃなかった。

 

そもそも1日だけしか着ないものにレンタルでも数万とか+着付けがどうの…とか

そこに価値が見いだせなかった。

ならば既にバイト代で買ってあったスーツで良いのだが特に行く動機もなかったのである。同じ考えでスーツ派にする女子は多いと思っていたが、振袖派が多数ということに驚愕したのは内緒。

 

それにあの場は好きじゃなかった。
見栄の張り合いみたいな側面。これはSNSにも言えることかもしれない。
尤も、中にはレンタル代すら厳しい家庭の人も居るだろうに、同年代でそういった貧富の差が出るイベント自体が好きじゃなかった。

 

ゆえ、卒業袴にも何にも価値を見いだせずスーツで出席した。そして、集合写真で袴姿の人が中心になって写された。
その代わり外出用の服には拘り、そういうところに投資する。実際、卒業式では自分の持ってるもので一番というアクセサリーを身に付けた。

 

卒業式でスーツにしたのはネガティブな理由ばかりでなく、社会人になるための一歩として就活のための装備を自前で揃えられるくらいにはなりました、春からこれで働くぞ、の意思表示のつもりもあった。
自前で揃えたスーツ一式は特別なものである。これはレンタル着物では絶対に表せることではない。

 

親としては二十歳まで育てられたことに誇りを持ち、子としてはそれを感謝するイベントが成人式の本来の意義なのかもしれない。

ただ、振袖を着たいとか、出たいとか思う何かがなかった。



しかし箪笥から出てきた身内が過去着ていたものを見たときは、目が覚めるほどの青色と縁起の良いモチーフが美しかったのを覚えている。

よくDMで目にするただ派手でプチプラ感が否めないものとは比べ物にならなかった。

結局これを着るにしても袖直しが必要となる為、お金も時間もかかるのには変わりなかった。



成人式がどうしても特別な人の立場

つけまつける『同じ空がどう見えるかは心の角度次第だから』(https://www.uta-net.com/song/123218/

という歌詞があるように、同じ物事をどう捉えるかは人それぞれである。

 

とある人から聞いた話によると、病気や障がいで二十歳まで生きることでさえ難しいという立場の人が世の中一定数居るということ。

その立場の人にとっては、二十歳を迎えられることはとても大変なことなのだと。

二十歳まで生きられないかもしれない人にとっては特別で、成人式の看板の前でずっと写真を撮っていたなんて話もあるらしい。

そういう話を聞いたら、お金を沢山かけてでもとても綺麗な衣装を着せてあげたいと思う家族の気持ちもわかる。

 

二十歳を迎えることは当たり前で、私にとって何でもない、と成人式に何も意味を見いだせなかった私はそれまで成人式の重みに気づけなかった。同じイベントでも、それが大切なイベントである立場の人もいるのだと気づいたとき、ハッとした。

価値観の違いだったのだろう。自分が下らないと思っても、決して馬鹿にしていいものではないのだ。

 

年齢は成人なんかしても、私は無知でちっとも大人にはほど遠いものだ、と恥じた。

 

 

今年に思うこと

只でさえコロナのせいで例年通りいかない中、

関東では緊急事態宣言再発令をひかえ、既に各地で成人式中止の知らせを相次いで聞いている。

 

先述の通り、その日がとても特別な日としている人の気持ちを察すると、残念という言葉ではとても言い表しきれない。

色々な面からもコロナが恨めしいと思う人は沢山いることだろう。

 

今年の新成人は色々大変だとは思うが祝福の気持ちとともに、それぞれの形でできるだけ良い思い出になるような祝日を迎えてほしいと思う。