雨と箱庭

明日は明日の風が吹く。

今年もバレンタインがやってくる。

バレンタイン中止のお知らせもまた恒例行事なのだろう。

それを尻目に、私はただ今日を生きる。何でもない日万歳。

 

誰が誰と付き合った、とか誰が結婚した、とか

そういう話もちらほら耳にする機会こそ多くなったが、

「そうか。」と思うだけである。

恋バナも昔からあまり好きではなく、周囲よりは私がただ無関心すぎるのかもしれない。

 

「彼氏欲しいとか思わないの?」「結婚しないの?」

ただ、こういう質問は控えめに言って苦手である。

「したいけどできない」というのと間違われたり、「誰にも選ばなくて可哀想」という偏見を持たれることはもっといただけない。

 

むしろ、まだ願望がある方がマシだろう。

否定したところで「強がり」と解釈されてしまうケースも本当に厄介だ。

「きっとまだその時が来ないだけさ。」というフォローをされたところでただ違和感を覚えるだけである。

 

持論を展開したところで人それぞれの価値観がある限り無意味なのだが、整理していくとぼんやり見えてくるものもある。

 

普通の人は、まず出会いを!となるのだろう。

もちろん、そういう場に機会を求めに行く人のことまで否定しない。

お見合いやマッチングのような「数打ちゃ当たる戦法」は絶対向かないのは簡単に想像できている私は、寧ろ本能的に避けている。容姿さえ優れていれば話は別?

だんだん関わっていくうちに「合わない。」と言われてしまう自信はある。逆も然り。

気の合う友人一人探すのも非常に大変であることからも望みが薄いことが窺える。

 

そもそもが、出会い自体を求めているのではないのである。

恋人が欲しいと思ったことがない。結婚に憧れたことも、子どもが欲しいと思ったこともないのである。

この時代でもそういった人間はまだ物珍しいように映るらしく、しばしばこの手の質問を受けるたびにそれを実感する。

卵が先か、鶏が先か。

ただそれだけのことであり、そういう願望がないことを怪訝に思われることが違和感の正体である。

 

さて、大多数が抱くであろう願望がなぜ私にはないのか。

 

男子からはよく人間扱いされなかった。

恋愛系の根も葉もない悪い噂を学年中に流された。

異性とは交流するなと厳しく躾けられた。

好きな人のことを否定された。

 

その過去のせいで恋慕という感情が成人前にとっくに欠落したのだと片づけていたが、

この歳にもなって言い訳としては少々稚拙すぎないかとある日気が付いてしまった。

 

私は人間不信で、よほどのことがなければ他人を慕うことがない。

振り返れば、それで全て説明がついてしまう。

思ったより根本はシンプルな理由だった。

 

もちろん、ある種の諦念もあるかもしれない。

逆に、自分より容姿もスペックもコミュ力も上の人間はごまんといる。

少なくともプライベートにおいては自分が欠けても代わりはいるのではないか?

人間関係において頭の片隅にはその疑問符の存在がふとちらついてしまうのは癖だ。

 

しかし、裏を返せば

「万が一、本当に自分を必要とする人間が現れればその時は考えるかもしれない」ということになる。

お金や個人の能力で実現できることとはまた違う、いわばご縁というものもあるので、そういうことが起こらなければそこまでだと割り切る。

 

来るもの拒まず、去る者追わず。

人間関係で極力ストレスから遠ざかるにはこれが最も合理的だ。

 

ただ、「人を本気で好きになったことが一度もないでしょう?」と言われたら、

それだけは流石に違うと主張する。

本当に敬愛していた人には、どんな形であれ今幸せであってほしいと思ってしまう。

たとえそれが自分が隣にいなかったとしても。

口に出すことではないのかもしれないが、決して偽善ではなく、本心から自然に思うことである。

逆にどうでもいい人にはそうは思えないことがそれを証明している。

 

人生、パートナーの有無だけが幸せでない。

 

どうあれ、いつか死ぬその時になったとしても私は寂しい人生だったとは少しも思わないだろう。